日本男子バレー日本代表の正セッター、関田誠大選手!
自由自在なトスワークで相手ブロッカーの意表をつく頭脳プレーで大活躍中ですね。
そこで今回の記事では、
こちらの内容でまとめてきます。
関田誠大のwikiプロフィール!
ここでは、関田誠大選手のプロフィールをご紹介します。

名前:関田誠大(せきた まさひろ)
愛称:ゴリポン、セキタ
国籍:日本
出身地:東京都江東区
生年月日:1993年11月20日
年齢:29歳(2023年10月現在)
身長:175cm
体重:71kg
血液型:B型
所属チーム:ジェイテクトSTINGS
ポジション:セッター
利き手:右
関田選手は、身長175cmと、バレーボール選手としては小柄です。
しかし、持ち前の身体能力の高さで、身長のハンデは気にならないほど。
試合経験も豊富で、チームの司令塔として巧みなトス回しが強みの選手です。
関田誠大の小学~大学までの学歴!

関田誠大選手の小学・中学・高校・大学までの学歴をご紹介します。
小学校:中之台小学校(東京都葛飾区)
中学校:駿河台学園中学校(東京都北区王子)
高校:東洋高等学校(東京都千代田区神田三崎町)
大学:中央大学法学部(2023年度~文京区に移転)
関田選手は、出身地である東京都江東区ではなく、東京都葛飾区の中之台小学校に入学し、中学・高校も都内の学校へ進学しています。
もしかしたら幼少期に引っ越ししたのか越境入学をした可能性もありますね。
そして高校は、どうして東洋高等学校に進学したのかなど、経歴とともに見ていきましょう!
関田誠大の超エリートなバレー経歴を紹介!
ここでは、関田選手のこれまでのバレー経歴について詳しくご紹介していきます。
経歴を見れば、小学校・中学校・高校・大学、全てのカテゴリーで日本一なんです。
関田選手の超エリートなバレー経歴はこちらです!
関田選手は、東京都葛飾区にある中之台小学校に入学します。
バレーを始めたのは、小学1年生の時。
きっかけは、先にバレーボールをしていた、
姉の影響
でした。

兄弟から影響を受けて、同じスポーツ選手として活躍する人は多いですよね!
石川祐希選手と石川真佑選手も同じく兄妹でバレーボール選手として活躍していますよね。
当時はバレーだけでなくスイミングにも通っていたため、4年生になる前に、両親にどちらかを選択するように言われ、バレーボールを選択したそうです。
小学生の時は、
東金町ビーバーズ
というチームに所属します。
このチームは、東京都葛飾区で創立42年(2023年時点)の歴史あるチームです。
練習は週6日、目標は常に日本一。
東金町ビーバーズは、全国大会で優勝経験のある強豪チームなのです!
そんな強豪チームに所属した関田選手は、ここからバレーボール選手としての頭角を現していくのです。
この頃から、
強いヤツを倒したい
という思いを抱いていたそうです。
関田選手はとても負けず嫌いな性格のようですね。
中学校は、東京都北区王子にある駿台学園中学校に入学します。
この中学校は私立の中学校で、男子バレー部が強豪校として有名です。
これまでに全日本中学校バレーボール選手権大会に15回も出場経験があり、優勝7回・準優勝4回という成績を残しています。
小学生で強豪チームに所属していた関田選手がこの中学校を選んだ理由も納得できますよね。
関田選手はこんなことを言っていました。
「どうせ厳しくやるなら、強いチームで勝ちたい。勝てないチームを俺が勝たせる、じゃなくて、強いチームで日本一になりたくて。厳しくて勝てなかったらきついですから(笑)」
引用元・4years.

しかし、関田選手は中学1年生の時、試合に出場する機会はほとんど無く、球拾いばかりだったそう。
強豪校となると、上級生にレベルの高い選手が揃っているので、レギュラーは狭き門だったのかもしれません。
中学3年生になると、関田選手は今のポジションである、”セッター”として活躍し始めます。
セッターとして挑んだ全国大会では優勝を果たしています!
その当時、北京オリンピック予選が行われており、その試合を見た関田選手は、
チームが一体となり、体育館がという場所が一体化していく様子
を見て感動しました。
これをきっかけに、オリンピックという夢を抱くようになったそうです。

関田選手が進学した高校は、東京都千代田区にある東洋高等学校です。
この高校へ進学した理由は、
柳田将洋選手に誘われたから
です。
「もともとそのまま上(駿台学園高)に上がる気はなくて、東洋か東亜(学園高)、どっちにしようかと思っていた時にマサ(柳田将洋)から誘われたんです。『東洋来ない?』って。結局、それが決め手になりました」
引用元・4years.
柳田選手と言えば、日本代表のキャプテンを務めた経験もあり、代表のエースとして活躍している選手の一人ですよね。

1歳上の柳田選手とは母同士が知り合いだった縁もあり、小学生の頃からつながりがあったそうです。
関田選手は高校1年生の時、既にレギュラーとして活躍します。

そして2010年の春高バレーでは、柳田選手と共に初優勝を飾るのです。
2011年の春高バレーでも、ベスト4という成績を残しています。

高校時代に輝かしい成績をおさめた関田選手が選んだのは、中央大学でした。
関田選手が在学中には、2学年下に石川祐希選手も在学していました。

大学3年生の時、関田選手はさらに飛躍します。
大学3年…「全日本インカレ優勝」「セッター賞受賞」
大学4年…「全日本インカレ優勝」「最優秀選手賞受賞」
大学4年時には、キャプテンまで務め、チームを優勝に導いた関田選手。
順調なバレーボール人生を歩んでいますよね。

関田選手は大学4年生の時の2015年12月1日に、パナソニック・パンサーズに内定が決まります。
2016年シーズンになりVリーグ選手となったのですが、同じチームには深津英臣選手の存在がありました。
深津選手がチームの正セッターとしての地位を不動としており、関田選手は入団後3年間は試合に出る機会も少なかったのです。
しかし、そんな中でも、着実にセッターとしての実力を発揮していきます。
・2016年:日本代表メンバーに選出される
・2016年:リオ五輪最終予選2試合にスタメン出場
・2017~2018年シーズン:天皇杯・黒鷲旗に出場し、チームに貢献
・2018年:世界選手権出場
十分にチームに貢献してきたものの、控え選手となることも多かったため、自分の活躍には満足はできなかったそうです。
もっと試合に出て経験を積む為に、堺ブレイザーズに移籍を決意します。

堺ブレイザーズに移籍した関田選手は、移籍1年目から念願の正セッターとして試合に出場したのです。
その後は、パナソニック時代の2倍相当となる試合数をこなし、試合経験を積んでいきました。
その結果、関田選手は日本代表セッターとして名を馳せ、徐々に活躍していきました。
念願の東京オリンピックにも出場し、29年ぶりのベスト8に貢献しました。
この時代の関田選手の成績はこちら。
・2018年:世界選手権出場
・2019年:FIVBワールドカップバレー4位
・2019年:アジア選手権3位
・2012年:東京オリンピックベスト8

しかしながら、関田選手はオリンピックベスト8という結果には満足しなかったそうです。
試合後、関田選手はこのように話していました。
もっと上位を目標にしていたので達成できなかったのは正直悔しいです。
海外チームとの力の差をあらためて感じましたね。
関田選手の掲げている目標はまだまだ高いものだったようですね。
東京オリンピックを経験し、世界との力の差を痛感した関田選手。
堺ブレイザーズを退団し、海外 移籍を決意します。

その移籍先は、
ポーランド1部リーグ「クプルム・ルビン」
でした。
ポーランドは、イタリアと並んでバレーボールの最高峰と言われる世界トップクラスのバレーボールリーグです。
実は、関田選手の海外進出は東京オリンピック後に決めたことではなく、大学時代から考えていたことだったようです。
関田選手はポーランドに移籍後も、スタメン出場する機会は多くありました。
献身的なセッターとしてのプレーを認められ、チームメイトからの信頼も厚い選手として活躍しました。
ポーランドに移籍し、1シーズンプレイした関田選手は日本に戻りました。
2022年6月1日に、ジェイテクトに入団しました。

日本代表の正セッターとしてスタメン出場している関田選手のトスワークはさらに進化しています。
海外経験によってどんな変化があったのか、自分ではよくわからないんですと話していた関田選手ですが、石川選手が関田選手の変化についてこのように話していました。
「一番変わったなと感じるのは“自信”。自信を持ってトスを上げているから、アタッカーとしても打ちやすいし、勝負できるトスがくる。トスワークに関しても非常に意図が感じられます」
引用元・https://number.bunshun.jp/articles/-/855919?page=3
今や関田選手は、
「ボールを扱わせたら世界一。球際の天才」とも称され、日本代表には欠かせない存在になっているのかもしれませんね。
関田誠大のwikiプロフ&学歴!小学~大学の超エリートなバレー経歴を紹介!まとめ
今回の記事では、
・関田誠大のプロフィールについて
・関田誠大の小学~大学までの学歴とバレー経歴について
こちらの内容でまとめました。
関田選手は小学生の頃から厳しい練習を行う強豪チームに所属し、努力を重ねてきたことが分かりました。
全国制覇も度々果たし、正にバレーエリートですね。
今後も関田選手の活躍に期待しましょう。














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