2023年8月25日から行われている、バスケワールド・カップ!
熱戦が続く中、注目を浴びているのが、男子バスケ日本代表通訳を務める、「勝久ジェフリー」さん。
一体どんな方なのか気になりました。
そこで、今回の記事では、
こちらの内容でまとめていきます。
【男子バスケ通訳】勝久ジェフリーのプロフィール

バスケ男子日本代表の通訳として活躍している、「勝久ジェフリー」さんのプロフィールをご紹介します。
名前:勝久ジェフリー
国籍:日本
出身地:インドネシア
生年月日:1981年5月18日
年齢:42歳(2023年8月現在)
身長:167cm
出身大学:サンタクララ大学
【男子バスケ通訳】勝久ジェフリーの経歴!帰国子女でハーフ?

ここでは、勝久ジェフリーさんの経歴についてまとめていきます。
勝久ジェフリーさんは、インドネシアで生まれました。

父は日本人、母はアメリカ人のハーフ
です。
インドネシアで生まれたのは、父が農林水産省の職員として、世界各国を飛び回っていたからだそうです。
その後は、日本、イタリアで暮らし、9歳の頃再び日本へ。
勝久さんは、
帰国子女
ということです!

大分から東京に引っ越してきた10歳の頃に、バスケットと出会い、瞬く間に虜になったとか。
16歳まで東京のインターナショナルスクールで学び、バスケ部に所属しましたが、「バスケットボール選手になりたい」という夢は抱かなかったそうです。
父の仕事の都合で、アメリカに移住することになり、高校からはアメリカで過ごすことに。
ベルビュー高校へ進学しました。
幼少期から様々な文化や価値観と触れ合った経験で、他者に対するリスペクトの心を備えを身に着けたそうです。
「人の話をきちんと聞き、お互いを尊重しながらコミュニケーションを取れるのは、海外生活が長かったことの強み」とは本人の談。
引用元・4years
高校でもバスケットは続けていました。

身長167センチで、ポジションはポイントガードでした。
特に目立った成績を残したわけでもなく、周囲の仲間とともに大好きなバスケに打ち込みました。
「先のことは考えず、まずは大好きなものを見つけなさい」という両親の教えの元で育った勝久さんは、高校卒業後はカリフォルニア州にあるサンタクララ大学に進学。

名アクな専門分野を設けず、興味・関心に応じて様々なことを学べる「リベラルアーツ教育」で知られる大学です。
「『これを勉強したいならここにいく』って学校もたくさんありました。サンタクララは『ただ勉強したい』『いろんな経験をしたい』という純粋な好奇心を満たして、卒業後にその知識を人のために生かすというマインドを育ててくれる大学でした」
引用元・4years.
自由な学びが得られるサンタクララ大学で天文学、ギリシア哲学、シェイクスピアなどを学び、勝久さんは様々な好奇心を満たしていきました。
3年生になってからは主専攻をフランス語、副専攻を人類学とし、フランスへの短期留学も経験。
週6日のバスケサークルの活動に熱中しつつも、ピアノのレッスン、発掘調査のアルバイト、合唱団への参加など、課外活動も非常に活発だったそうです。
この頃から、勝久さんがストイックで熱い方というのがわかりますね。
「好きなことを見つけなさい」という両親のアドバイスのもと、勝久さんは大学では興味の赴くままに様々な学びを得ていましたが、大学卒業後の進路についてなかなか決まらなかったそうです。
友人たちが就職に向けた準備を始めている中、4年生になっても卒業後の進路は一向に定まらなかった。勝久さんが各国の文化に興味を持っていることを知っていた父からは、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)への就職をすすめられたが、具体的なアクションを起こすまでには至らなかった。
引用元・4years.

「人のためになることがしたい」、「バスケットボールが大好き」。
勝久さんは“好きなもの探し”の過程で、この2点が自分をかたどる絶対的な軸であることを理解していたそうですが、これが何の職業につながるかがまったく思いつかなかったとか。

卒業までわずかとなったタイミングで、勝久さんはふと、3人のコーチのことを思い出したそう。
3人のコーチは、様々な場面で勝久さんと向き合い、勝久さんの人生に様々な教えを授けてくれたそうです。
・インターナショナルスクール時代のバスケ部のコーチは、「誰に対してもフェア」であること。
・ハイスクール時代のクロスカントリーのコーチは、「リスペクトの精神とベストを尽くすことの大切さ」。
・大学時代の合唱団のコーチは、「チームが一つになることの喜びと情熱……」。
このことをきっかけに、バスケットボールのコーチになることを決意した勝久さん。
勝久さんの根幹にある2つの点は、初めて線でつながった。
「大好きなバスケットを通じて、人生に役立つメンタリティを教えられたら、こんなに幸せなことはないじゃないか。バスケットボールのコーチになろう」。
ハイスクール時代のバスケ部のコーチに、コーチのあてがないかと相談したところ、日本では中学生にあたる付属校の7年生チーム(12~13歳)がACを探していることを聞きつけた。
引用元・4years.
大学を卒業すると、勝久さんは実家のあるシアトルに戻り、日中は障害のある小学生の学習補助、夜間と土日は母校の付属校のボランティアコーチという二足のわらじ生活をスタートさせました。
学校は15時ごろに終わり、チーム練習は18時もしくは19時にスタートする。空き時間は思う存分、コーチングの勉強に費やすことができた。
引用元・4years.
自分が大好きなバスケットを通じて、未来ある子どもたちを手助けできることやバスケットの技術や戦術そのものを教えられることが単純に楽しかったそうです。
しかし、この二足のわらじ生活は3年で終わることになります。
勝久さんが再び“好きなもの探し”の旅に出ることを決めたからです。

勝久さんが再び“好きなもの探し”の旅を決意し、その行き先は父の故郷であり、自身が9歳から16歳まで過ごした日本でした。
「アメリカに引っ越してからも、日本が大好きでしたし、どこかで日本が恋しい気持ちがあった。だから、確かめたかったんです。なんで自分は日本が好きなのか。若くていろんなことがただ楽しい年ごろだったからなのか、それとも別の理由があったからなのか……」
引用元・4years.
米国から日本の企業へ履歴書をたくさん送ったものの、採用どころか、面接にこぎつけるのにも苦労したそう。
ラチがあかないからもう日本へ行ってしまえと友人を頼って、2007年に来日。
インターナショナルスクール時代の友人宅に居候しながら就職活動をし、英会話講師を経てスポーツマーケティング会社に就職した勝久さん。
またバスケに携わりたいと思うようになったタイミングで、当時bjリーグに所属していたプロチーム・東京アパッチ(現・東京サンレーヴス)がマネージャー兼通訳を募集しているとの情報を聞きつけて応募し、無事に採用されました。
勝久さんは、大好きなバスケットを仕事にできる喜びに震えたそうです。
その翌年、チームが創設したばかりの千葉ジェッツから、同じくマネージャー兼通訳としてオファーを受けました。
勝久さんは、コーチを志望していることを告げると、申し出は受け入れられ、アシスタントコーチ兼マネージャー兼通訳としてクラブに加入できました。

そうして、
選手経験ゼロ、コーチ経験は中学ACを3年という、異色のキャリアのプロコーチが日本のトップリーグに誕生しました。
このとき、勝久さんは30歳でした。
10代後半からコーチになるために勉強を続けてきた人や、トップ競技者としての経験を生かしてセカンドキャリアをスタートさせる人と比べれば、その歩みは遠回りでしたが、長きにわたる自分探しの旅を、勝久さんは一切後悔していないそうです。
しかし、千葉は当時、創設1年目。
関わる人それぞれがクラブの土台作りに奮闘する中、勝久さんはアシスタントコーチと通訳においてそれを担わなければならなかった為、当初はつらい経験の方が多かったそうです。
何より痛感したのが、コーチとしての引き出しのなさだった。
小さなころからバスケを愛し、たくさんの映像や本から学んできた自負はあったが、それをトッププレーヤーたちに落とし込めるかというと話は別だった。「経験がないからやっぱり無理なのか」。そんな思いが頭をよぎったこともあった。
引用元・4years.

それでも勝久さんは立ち止まることはありませんでした。
「僕には、他の人が持っているようなキャリアはありませんが、バスケットが好きで、人のために何かしたいということへの情熱は絶対的なものだった。だから、迷いはなかったです。誰よりハードワークして、絶対に成功させるという気持ちでした」。
ハイスクール時代の恩師の「努力をしたら絶対に先のことは心配しなくていい。結果はついてくる。自信を持ってやれ」という言葉が灯(ともしび)となった。
引用元・4years.
選手たちの成長を助けるために選手の話を聞いたり、長時間の自主練習に付き合ったりすることもいとわず、映像や書籍にあたる量も増やし、自由に使えるすべての時間をすべてバスケに注ぎ込んだそうです。
勝久さんのバスケット愛も素晴らしいですが、超ストイックですよね~

勝久さんは千葉で4シーズンを過ごした後、ついに2015年に岩手ビッグブルズでヘッドコーチ(HC)に就任しました。
その後、勝久さんは2017年と18年にはサンロッカーズ渋谷でHCを務め、18年の10月末、その職を解任されています。
理由は成績不振。シーズン開幕から約1カ月のことでした。

「コーチをやっていて一番つらかったのは、いつですか?」という質問に、勝久さんはこのように話しています。
「やっぱり大好きなことをやっているので……。自分のすべてを仕事に注ぎ込んで、自分を投影してコーチングをしていたので、それをバッサリと絶たれたときには、どうしても自分自身を否定されたような気持ちになりました」
引用元・4years.
人生初めての契約解除はやはりショックが大きかったようですね。

勝久さんはどの団体にも属することなく、浪人生活を送りました。
家族との時間を増やし、ブンデスリーガ(ドイツリーグ)の強豪クラブを視察するなど有意義に過ごす中で、改めて渋谷にいたころの自分と向き合ったそうです。
「当時の僕はそれにとらわれ過ぎて、選手やいろんな人との対話や振る舞いが、『その人のために』という思いに基づいていなかったように感じました。それまで大切にしてきた、選手を成長させることや、チームに一体感を持たせることへのフォーカスを忘れ、自分の契約解除は妥当な判断だったのかなと思えました。この振り返りに至るまでは、痛かったし、つらかったです。でも答えにたどり着けたことで、この経験を次に生かそうと、前向きにとらえられるようになりました」
「つらい経験ではありましたが、コーチとして若い内にそれを経験できてよかったとも思えます」
引用元・4years.
コーチを志す原点となった「選手やスタッフたちのためになりたい」という思いを再確認できた期間になったようです。
2019年、「川崎ブレイブサンダース」の佐藤HCから「今季から新しい体制でやるから、一緒にやらないか?」という電話を受け、アシスタントコーチ(AC)を務めることに。
勝久さんはHC経験を存分に生かして、佐藤HCを全力でサポートしたそうです。

そして再びHCとして、チームを作りたいという思いもあるようです。
「一つひとつの行動に対して決断を下し、ゼロからチームを作り上げるという点で、HCはアーティストに近しい存在だと思っています。それぞれの決断には大きなプレッシャーがかかりますが、僕にとっては大きな魅力で、とても楽しいことなんです。」
「理想は、1+1+1+1+1が5でなく、それ以上になるチーム。場所は日本でも海外でも、どこでもいい。自分たちの後に続く人たちに、バスケットの素晴らしさを感じてほしいし、バスケットを知らない人には自分たちのゲームで勇気を与えられたらなと。後は一緒にやるチームメートですよね。どこにいっても、『一緒にやれてよかったな』と思えるような人間関係を作りたいです」
引用元・4years.
プロコーチとしてのキャリアは、10年を超えていますが、勝久さんのチャレンジはまだまだ始まったばかりのようです。

これまでのコーチや通訳の経験や実績が認められ、2021年東京五輪から、日本代表のサポートコーチ兼通訳に選出されている勝久さん。
2023年8月25日に開幕した「ワールド・カップ」も日本代表の一員として挑むことになりました。

日本代表のトム・ホーバスHCは、勝久さんについてこのように話しています。
「私の気持ちや考え方をわかっている。彼はもううちの通訳さんだけじゃない」
「(言いたいことの)半分くらいは勝久ACが発言してくれるから体力的にも楽です」
引用元・https://basketballking.jp/news/japan/mnational/20220222/360294.html/2
と、代表活動における貢献ぶりを高く評価しています。
これまでの努力が実り、着実に「人のために」という役割を全うしている勝久さん、素晴らしいですね。
【男子バスケ通訳】勝久ジェフリーの熱い姿が話題に!
ワールド・カップでの勝久さんの熱心な姿が話題となっています!
熱い姿を絶賛されていますね!
試合を見ている人にも、勝久さんの熱意が相当伝わっていることがわかります。
【男子バスケ通訳】勝久ジェフリーのwiki経歴プロフ!選手経験ゼロからコーチに!まとめ
今回の記事では、
バスケット男子日本代表のコーチ兼通訳の「勝久ジェフリー」さんの経歴やプロフィールについて
まとめました。
勝久さんは、日本とアメリカのハーフで、帰国子女でしたね。
日本代表の通訳として熱い姿が話題となっていますが、ここに来るまでに紆余曲折あったことがわかりました。
バスケット選手としての経験がほとんどないままコーチへの道に進んだことにも驚きました。
今や日本代表監督の右腕とも言われる勝久さん、今後もさらに活躍しそうな気がします。

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